(この、気配は――。)
カナイは、トランとデュナンの国境付近にある森に来ていた。
紋章の関る戦争に、巻き込まれたくないと思いながらも、その結末が気になり、遠く離れることのできなかったカナイは、トランとデュナンの国境付近を、この数ヶ月、行ったり来たりしていた。
とりあえず、今回はトランへ向かおうと考えていたカナイは、ある気配を感じ、そちらに向かい、森の中を進んでいった。
前へ進むために
デュナン――同盟国とハイランド皇国の戦争は、ルカが倒されたことにより、終結に向かうかと思われた。
だが、皇女ジルと婚姻関係を結ぶ事で、ハイランド皇国の新たな皇王となった、ジョウイ・ブライトにより、戦は終わる事はなかった――。
カナイは、ほとんど音もたてず気配を消して森の中を歩き、まっすぐその気配に向かって歩いていくと、木々の隙間から、キラキラと光る水面が見えた。
「へえ、湖だ。」
つぶやき、いっきに森を駆け抜けてしまうと、そこは、少しばかり切り立った崖になっており、眼下には結構大きな湖が広がっていた。
その湖岸にそって視界を移していくと、それほど離れていない場所に人影があった。
……赤い、ちょっと変わった拳法着を纏った、緑のバンダナをした少年が1人、静かに釣りをしていたのだ。
「……ティル。」
ポツリとつぶやいた声が聞こえたわけではないだろうが、その少年はゆっくりと顔をあげて首をめぐらせ、カナイを視界にとらえて、驚いたように目を見開いた。
「ひさしぶりだね、ティル。」
カナイはそのまま湖岸沿いを移動して、ティルのところまで移動していた。
「ええ、お久しぶりです。」
そして、しっかりと手を握り合って、再会を純粋に喜び、笑いあった。
しかし、そのティルの笑い方に、3年前には感じられなかった、影のようなものを見つけて、少しだけ胸が痛んだ。
その胸の痛みが顔に出でもしたのか、ティルは不思議そうに首を傾けた。
「どうかしましたか?」
「いや……。」
曖昧に否定しながら、カナイはティルに桟橋に座るように示し、自らの荷物の中から釣りざおを取り出すと、ティルが垂らしている糸の隣に糸を垂らし、おもむろに釣りを始めた。
そのカナイを見て、笑いながらもティルもそれに倣った。
「……それより、また、言葉使いが硬い。」
しばらく、心地よい陽気の中で、静かに並んで釣りをしていたカナイが、ポツリとつぶやいた。
ティルは、自分の質問をごまかされたのは解っていたが、追求することなく、苦笑で答えた。
「……やっぱり、小さい頃から教え込まれた、目上の人には礼節を持ってというのが、身にしみついてまして……。」
この方が落ち着くんです。
と言われてしまえば、カナイも苦笑するしかなかった。
それは、確かに自分も感じたことのある感覚だった。
まあ、最も、カナイの場合、小間使いとしてほとんど全ての人に対して丁寧な敬語を使うのが当たり前に育ち、軍内でリーダーを命じられた後、仲間に必要以上に敬語を使わないよう、散々怒られたのだったが……。
そんなことを思いだし、1人思いだし笑いを浮かべた。
「解放軍の仲間には、そんな話し方してたようには思えないんだけどね?」
そして、カナイが少しばかり悪戯な笑みを浮かべてそう言うと、ティルは楽しそうに笑った。
「そう接するべき人と、そうでない人を区別してましたからね。対等であるか、教えを請う人かの違いだと思いますよ。」
「……だとすると、おれは、『教えを請う人』に分類されるのか?」
「ええ。」
半分ちゃかしたように言ったつもりが、真面目に即答されて、カナイは照れくさいような気分と、いっきに脱力したような気分になり、頭を押さえた。
「……勘弁してほしい。」
「何がですか?」
純粋に好意をもった瞳でそう聞かれて、カナイは言うべき言葉を見つけられず、ただ苦笑するに留まった。
とても、良い天気だった。
新緑の臭いが風に運ばれ、適度に心地よいその風の中に、甘い花のような臭いも感じられ、とても気持ちが休まった。
「……静か、だな。」
「はい。」
2人の会話、そして動く音の他は、水の音、木々のざわめきしか、聞こえてくることはなかった。
「そういえば、カナイさんは、どうしてここに?」
今、気づいたかのように、ティルはカナイに訊ねた。
「まあ、単純な理由。……トランに、向かおうとしてたんだ。」
「……トラン、に……。」
繰り返されたティルの言葉に、少し感じるものはあったが、今はそれを無視した。
「ああ。……デュナン一帯の戦争は、終わるかと思ったが、まだ、続く。気にはなっているんだけど、……この紋章を持っている限り、近寄らない方が、いいと思ってね。」
「……そう、ですね。」
ティルの、竿を握る手に力が入ったのがわかった。
明らかに、何かを耐えている、それがわかった。
「……そういえば、ティルは、国を、出たんだよね? ……ここにいるのは、やはり、心配、だったから?」
ティルの個人的なことに突っ込みすぎる質問かとは思った。
だが、門の紋章戦争終了後、人知れず姿を消した『トランの英雄』の噂は、遠く離れた国にいたカナイの耳にさえ届いていた。
――心配、はしていなかった。
テッドが認めた親友が、紋章の重みで潰されてしまうことはありえないと思っていた。
自分自身も、ティルを知り、その可能性はとても低いと信じていた。
これは、希望ではなく、確信だった。
――だが、気にはなっていた。
テッドとは違う強さを持つ彼は、テッドと違う意味で1人で生きることを選んでしまうのではないだろうか、と。
孤独に押しつぶされるような、脆弱な精神を持っていないからこそ、大切な仲間を紋章の呪いから遠ざけるために、自ら1人を選ぶのではないだろうかと。
それは、それで、ティルが自分自身で選んだ道なら、カナイに何かを言う権利はない。
だが、いくら強さを持ち合わせていたとしても、それはあまりにも寂しい人生でしかない。
……テッドの親友に、そんな生を送ってはもらいたくなかった。
カナイの質問に、ティルは心配したほど気にした様子もなく、クスリと笑って答えてきた。
「そう、ですね。……やっぱり、心配でした。」
その様子は、虚勢を張っているわけでもなく、本当に、心からそう言っているのがわかる、はっきりとした答えだった。
「そっか。」
「ええ。でも、……あの国は……、おれの心配なんて必要ない、強い人間が揃っていますから。だから、大丈夫だと思ってました。」
「そ――。」
その言葉の意味が、カナイには少し嫌な感じがして、聞き返そうとした瞬間、カナイの釣り糸に、確かな手ごたえがあった。
慌てず、慣れた手つきで魚を吊り上げ、魚篭にいれる。
そして、改めて聞き返そうと顔を向けたとたん――。
あまりにも真剣な表情でカナイを見つめるティルの表情に、気おされた。
「……どうかした?」
「あ! いえ……、その……。上手だな、と。……それで、さっき言いかけたのは……?」
なんとなく、カナイにはティルが何かごまかしたなと思ったが、苦笑するに留まった。
「ああ、うん……。……国に心配がなかったら、ティルは、自分から国に帰ろうとは思わない?」
「え……、……必要、ないでしょう?」
本当にそう考えているらしいティルに、カナイは昔の自分を思い出して、フッと目の前が少し暗くなったような気がして、胸が小さく痛んだ。
(やっぱり、ティルは――。)
自分と、同じ道を選ぼうとしてしまっている――。
その考えに、カナイは、唇を噛み締めた。
「……カナイさん?」
その様子に気づいたのだろう。
ティルが心配そうな目を向けてきた。
「すいません。……何か、気に障ることでも、いいましたか?」
そのティルの様子は、心底カナイを心配していて、とても申し訳なさそうにしているのがとてもよくわかった。
すごく、カナイに懐く……といっては語弊があるかもしれないが、……テッドの友人だというだけで、ティルにとって、カナイはティルの中でかなり大きな位置をしめるようになっているのだろう。
その、カナイを困らせた、悲しませたかもしれないと、心配しているティルを、どこか、とても小さく感じてしまった。
そして、思い出す。
同じ真の紋章の継承者であっても、軍を率いて国を救った英雄であっても、彼はまだ、20歳にもならない少年だということを。
だが、いや、だからこそ――。
「……俺は、必要ないとは思わない。……今、君には、帰りたい場所があって、迎えてくれる人がいる。……ずっと、そこに身を落ち着けるのは無理だったとしても、……帰ることは、ムダなことじゃない。」
「……カナイさん……。」
カナイのその言葉に、何かを感じたのだろう。
ティルは、困ったように、悲しそうにカナイを見ていた。
「今すぐじゃなくても、それはかまわない。でも、考えておいて欲しい。……後悔は、しないように。」
「……カナイさん、後悔、したんですか?」
ティルの言葉に、胸が張り裂けそうに痛んだ。
走馬灯のように、親しかった友人、仲間たちの顔が次々に浮かんで、……消えていく。
やっと、再会したと思ったテッドさえ、彼とはまた会えると期待した直後、それを裏切られた。
「……ああ。」
少しの沈黙の後、つぶやくように答えたカナイの言葉に、ティルはカナイの悲痛な思いをひしひしと感じたような気がした。
「カナイ、さん……。」
「けど、いくら後悔しても、もう、おれは仲間に会うことができない。謝る事も、お礼を言う事も。さよならを、言う事も――。」
「……………。」
「……これは、おれの感傷だから、ティルが本当に、必要ないんだというなら、強制できるものでもなんでもない。……ただ、できるときに、怯えてそれをしようとせず、後から、何年も、何十年も、……何百年も、後悔するくらいなら、きちんと、けじめだけはつけておいた方がいいと思う。」
「……カナイさん……。」
遠くを見つめるカナイの瞳は、おそらく、150年前に出会った誰かの姿を映しているのだろう。
「……本当に、余計なことだったら、すまない。……たぶん、おれが、愚痴りたかっただけなんだ。」
そう言って、ごまかすように笑ったティルを映した青い綺麗な瞳は、とても、物悲しそうな色に変化しているように見えた。
その瞳を直視できなくて、ティルは湖面に視線を逃す。
そして、浮いたり沈んだりする釣りざおの浮きを、ただ目に移していたが、フッと瞳を閉じた。
そのまましばらくの間、ティルは微動もせず、何かを考えているようだった。
そして、ゆっくりと瞳を開け、今度はまっすぐにカナイの瞳を見返してきた。
「……今はまだ、帰る勇気がありません。……何か、きっかけがあったら、帰りたいと、そう、思います……。」
「そうか。」
その答えが得られただけでも、カナイはよかったと思えた。
自分など、もう『トラン』に必要ないのだと答えた、先程の希薄なティルに感じた違和感が、消えたように思えたからだ。
これから、悠久の時を生きることになるだろう、この少年に、出だしから躓くようなことをしては欲しくなかった。
おそらく、『きっかけ』は、すぐそこまで来ている。
そんな気が、した。
「ありがとう、ティル。」
「……お礼を言われることじゃないです。……むしろ、こっちが、言うべきことだと……。」
「いいんだよ。」
そう言いながら、とても優しく、満足気に微笑むカナイの綺麗な笑顔を見て、ティルもホッとしたように笑顔を浮かべた。
それから、また、2人はただ肩をならべて、ただ、釣りに興じたのだった――。
【END】
(05.09.15)
(05.09.28up)
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8888 hit キリリクを下さった朧月響さまに差し上げたものです。
書き上げるまでにかなりの時間を要してしまい、大変お待たせしたにもかかわらず、
リクエストに答え切れていないように思えるものとなってしまったのですが、
朧月さまからは、とても嬉しい感想を頂くことができました。
本当にありがとうございました。
これからもよろしくお願い致します。