その瞬間、気づいてしまった。
「……どうかした?」
演技の収録が一段落して、私がいつもと違う様子なのに気がついたのか、目の前まできて、不思議そうにつぶやく、事務所の先輩。
日本を代表する実力派俳優、敦賀蓮。
すごくいじぢわるで、怒ると大魔王かと思えるくらい恐ろしくて、それでいて、すごく優しくて。
とても尊敬している先輩。
だったはずなのに――。
呆然としたまま、じっと顔を見つめる私に、敦賀さんは、困ったように苦笑した――。
010.柔らかな羽
その日、撮影が終わった後、私は敦賀さんの顔を見ることが出来ずに、挨拶もそこそこに、下宿先への帰りを急いだ。
何度か、見たことはあった。
私の後ろにいる怨キョがいつも消滅してしまいそうになる、神々しいまでの笑顔。
それが、他の人に向けられて、気がついた。
『その笑顔、他の人に、向けないで――。』
そんなこと、私に言える権利なんて、どこにもなくて。
ただ、それが寂しかった。
「どうしてかなあ……。」
あの、馬鹿ショーが好きだったときは、自分だけに向けられない笑顔だと納得してしまっていて、ただ、側にいてくれればそれで幸せだったと思う。
なのに、今は――。
「側に、いて欲しいわけじゃないんだけどなあ……。」
あの笑顔だけは、他の人には向けないでいて欲しい。
確かに、側にいてくれたら、嬉しいと思う。
でも、考えてしまう。
「……側にいてくれるのが、また、嘘……だったら……。」
つぶやいて、立ち止まる。
敦賀さんは、あの、ろくでなしのショータローとは違う。
比べるのも失礼なくらい。
元々、まともに付き合う気がない相手には、適当にあしらって、近づいたりもしないだろう。
だから……。
「何をバカなこと考えてるのよ! 敦賀さんが、私の側に来るなんてことないじゃない!!」
キョーコは自分の頭をコツンと叩いて、また歩き始めた。
大通りに出た瞬間、すでに見慣れてしまったと言っても、嘘ではない、敦賀さんの車が視界の端に移った。
なんとなく、ドキッとして、電柱の影に身を潜めた。
「……べ、別に、やましいことなんて、ないのに……。」
(何、隠れてるのかしら、私……。)
自分にあきれつつ、ため息をついて、でも、電柱の影からは出られなかった。
でも――。
キキィ――!
……………。
キョーコのすぐ側で、車が停車する音が聞こえた。
頬を引きつらせて、キョーコは恐る恐るそちらを向いたら……。
「キョーコちゃん! そんなところに立って、どうしたの?」
敦賀さんのマネージャーである社氏が、ニコニコといつものごとく、キョーコに対する好意的な優しい笑顔で、車から顔をのぞかせていた。
キョーコは、その社氏にぎこちない笑みを返しながらも、そーっと、運転席にいる敦賀さんを伺い見たところ――。
「どうして、隠れていたのかな?」
キョーコの自分に対する行動が、いつもと違うことに、何かやましい事でもあるのだろうと思ったらしい、敦賀さんは、怨キョが浄化されてしまうあの笑顔の後ろに、在る意味それよりもっと恐ろしい、大魔王の暗雲を背負っていた。
「キャー!! ごめんなさい! ごめんなさい!! ごめんなさいー!!!!!!!!!」
道路脇の歩道で、条件反射のように、小叫し、半泣きになって土下座をしかかるキョーコは、慌てた社氏によって、車の中に引っ張り込まれてしまった……。
「……で? 今日は、何をしでかしたのかな?」
ある意味、一番最悪な状況になってしまったと、キョーコは車の後部座席で冷や汗をかいていた。
まさか、敦賀さんに対する気持ちを自覚して、どうしていいかわからないんです、とはいえるはずもなく……。
「そ、その……、ほんとに、大したことでは……。」
「大したことじゃないなら、どうして言えない?」
「……わざわざ、敦賀さんの気を煩わせることではないかと……。」
この時点で、社氏は、本社に用事があるとかで、すでに車から降りていた。
キョーコも一緒に降りようとしたのだが、蓮に止められて、降りるに降りれなかったのだ。
本気で困ってしまったキョーコは、下を向いたまま、小さくため息をついた。
(どうしたらいいの〜〜〜???)
「……俺に、聞かれたらまずい事? ……もしかして、アイツのことだったのかな?」
「はあ!?」
キョーコは、思いがけず出てきた『アイツ』の話に、まったく予想していなかったことから、素で驚きの声をあげた。
現在、完全に敦賀さんのことだけに頭を占められていたキョーコだったため、敦賀さんの声に反応して『呼んだ?』と出てきたショータローは、邪魔との一閃の元、怨キョに突き飛ばされてすぐにいなくなっていた。
「なんでそうなるんですか! 私が悩んでたら、全部『アイツ』のことだと!? 冗談じゃありませんよ!!!!!」
キョーコの後ろで、怨キョが「そーよ、そーよ。今、私が悩んでるのは、一体誰の所為だと思ってるのよ。」とコーラス状に繰り返しているのもあわさり、すごい剣幕でキョーコは否定の言葉を投げつけた。
本気で怒り出したらしいキョーコのその反応に、蓮は気づかれないように苦笑した。
ようやく、いつもの彼女に戻った事に、少し安堵し、『アイツ』のことでこれほどムキになる彼女に対して、少しばかり嫉妬を覚えた。
もちろん、それを知られるようなことはするつもりはなかったが。
「ごめん。でも、元気になったようだね。」
クスクスと、先程から背負っていた暗雲をどこかに吹き飛ばして、楽しそうに笑う敦賀さんに、キョーコは毒気を抜かれた気分になった。
(『また』、からかわれたの? 私!?)
その敦賀さんの反応に、先程の怒りを背負った様子が、演技だったのだと気づいたキョーコは、本気で腹がたった。
――が。
(……ある意味、助かった。)
すねた様子を演じて、窓の外を眺めるふりをしながら、内心、キョーコはホッとしていた。
そして、そっと視線だけを移動させて、敦賀さんの横顔を見る。
相変わらず、これ以上ないくらいに整った顔。
曲がった事、不真面目なことが大嫌いな割に、それが仕事に対する姿勢の前では、まったく意味のないことになってしまう、ある意味よくわからない性格。
それでも、キョーコがあこがれてやまない演技力の持ち主。
(……なんで、こんな人、好きなのかなあ?)
優しいとは思う。
……時々、キョーコにだけものすごく意地悪で、ものすごく恐ろしいが。
それでも、キョーコが悩んだときや、落ち込んだときなど、ただの後輩であるはずの相手に対してさえ、すごく親身になってくれる。
――今回のように。
なんだかんだ言って、今日の敦賀蓮も、元気のないキョーコを励まそうとしてくれていたわけで――。
そう考えると、なんとなく、嬉しい気持ちになった。
(それで、充分じゃない?)
そう、あの『バカ』は、キョーコが何に悩んでるとか、どんなことに困ってるとか、そんなことに対して、全く気など使ってくれない相手だった。
たとえ、キョーコに対する感情が、ただの『後輩』だとしたとしても、キョーコに対して親身に接してくれるなら、それで幸せだと思った。
(うん。こんなに、『私』自身に対して考えてくれる人なんて、ほとんどいなかったものね。)
その、数少ない、感謝してもし足りない人間の中に、自分が好きだと思える相手がいることを、今は感謝しないといけないと思った。
クスリと笑ったキョーコに気づいて、蓮は今度こそ安心したように微笑んだ。
その微笑は、車のガラスに映って、キョーコの目に入ってきた。
(……………///)
怨キョを一瞬で浄化してしまう、神々しい笑顔。
キョーコ以外の女性に向けられたのを見て、今日、自分の気持ちに気づいた元凶のもの。
(何で、私にはこんなに頻繁に見せるかなあ?)
それとも、自分が知らないだけで、敦賀さんが気に入っている人間は、みんなこの笑顔をみているのだろうか?
(それでも、いいや。)
間違いなく、今、敦賀さんがしているあの笑顔は、自分に向けられたもの。
今だけは私のもの。
例え、ずっとでなくとも、演技でも、ごまかしでもなく、そう思える瞬間が、自分にはある。
それだけでいいと、キョーコは思った。
そう考えると、焦っていたいた自分が、バカみたいに思えた。
「実際、バカよね。」
思わず、声に出てしまったその言葉に、敦賀さんが反応した。
「おや、ようやく、気がついたのかな?」
からかうように、笑いながら言うその言葉に、解っていながら、キョーコも反論する。
「どうせ、私はバカですよ!」
今のこの関係がいいと、改めて思う。
この関係を少しでも崩してしまい、修復できなくなるのが、とても怖かった。
敦賀さんにしたら、単に無邪気にじゃれてくる、変わった面白い後輩ぐらいなんだろうけど、それでも、可愛がってくれてるのはよくわかるから。
今は、その気持ちに甘えていたい。
心なんか、もう、望まないから。
だから、側にいることは許してください。
その、大きな翼で、雛鳥を庇護するかのように。
暖かく、見守ってくれている敦賀さんのままで。
私が、自分の翼で羽ばたく時がきたら、そのときは、笑って見送ってください。
そして、いつの日か、肩を並べて飛ぶことができたら、また、私に笑いかけてください。
それだけで、いいから――。
「明日も、よろしくお願いします。敦賀さん。」
「ああ、こちらこそ。」
にっこり笑って、私は敦賀さんの車から降りた。
なんか、すごくすっきりした気分。
「うん、やっぱり、気持ちって心の持ちようなのよね。」
撮影現場から帰るときと、現在の状況、何も変わってはいないはずなのに。
気持ちがずっと楽になっていた。
明日から、また、頑張ろう。
敦賀さんに、いつか、きちんと認めてもらえるようになれるまで。
「さあ、しっかりと休まないとね。」
そうしてキョーコは、気合をいれると、まっすぐに歩き出したのだった。
【END】
…蓮さま、中途半端。
なんだ、これ?
言い訳もなし。
…脱兎……。
(05.09.08)
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