どうしたらいいのか、わからなかった。
最初は、数日前、言われた言葉に耳を疑った。
『うざいんだよ、おまえ。』
――ショックだった。
親衛隊の人たちみたいに、特にあこがれてたわけじゃなかったけど、それでも――。
優しい先輩だと思ってた。
だからこそ……。
その上、まさか、柚木先輩が、あんなことをしてくるなんて――。
保健室のベッドの上。
押さえつけられた手は、びくともしなくて――。
力いっぱい、押し返したはずの体は、華奢に見えるのに、香穂子の力では撥ね退けられず……。
柚木先輩の唇を……、吐息を……、首筋に、感じた。
――怖かった――。
側にいて欲しいのは――
「香穂ー! おっはよー!!」
いつものように、登校した香穂子の後ろから、クラスメートのいつもと変わらない元気な声が聞こえてきた。
「あ……、うん。……おはよ。」
香穂子も、いつもどおりに答えようとして、無理やり笑みを作ったが、声には力がなかった。
「? どうかした?」
「え? ……その……、別に……。」
いつも元気な香穂子の、どこか暗い表情を見たクラスメートは、心配そうに顔を覗き込んできた。
「ほんと?」
「うん。……ちょっと、バイオリン弾いてたら、夜更かししちゃって……。」
「あ、なるほど〜。だめだよ。ムリしちゃ。」
「うん。気をつける。」
香穂子の、完全にはうそではない言い訳を、クラスメートは頭から信じて、そのまま香穂子の背中を叩いて、前のほうを歩く友人を見つけたらしく、走り去っていった。
その姿を見ながら、香穂子はため息をついた。
夜更かししたのは本当だ。
正確には、眠れなかったのだが……。
そっと、香穂子は首筋に手をやった。
昨日、ここに、柚木先輩の唇を……、吐息を感じた……。
ぎゅっと、唇をかみ締める。
柚木先輩は本気ではなかったとはいえ、香穂子には、恐怖だった。
あんな風に、上から、さげすまれるように見つめられたことも、自分の力ではどうすることもできない、無力さを突きつけられることも、香穂子には初めての経験だった。
いつの間にか、歩いていたはずの足が止まっていた。
校門は、もう、目の前にある。
いっきに、駆け込んでしまおうと思った香穂子の目の端に、黒い、大きな車がうつった。
香穂子は思わず息を呑んだ。
見間違えであることを祈りながら、恐る恐る振り向くと、たしかにそこに、存在した。
香穂子が先ほどわたってきた信号で止まっている、黒塗りの高級車。
その中から現れる人物など、1人と決まっている。
(どうしよう――。)
香穂子の頭の中は、その言葉で一杯だった。
会いたくないのだ。
いっきに校門へ飛び込んでしまえば、会わずにすむかも知れない。
でも、反対に、ちょうど鉢合わせてしまったら――。
柚木先輩は香穂子を目ざとく見つけて、笑顔で挨拶をしてくるだろう。
自分はその笑顔に、普通に言葉を返せるだろうか?
また、周囲の人間たちに、あらぬ誤解をされるような答えかたに、なってはしまわないだろうか?
彼は――、柚木先輩は、わかってやっている。
周囲の人の言葉に、香穂子が傷つき、落ち込み、自信をなくしていくのを、心の中であざけりながら見ているのだ。
足が震えてくる。
香穂子は、自分がこんなに弱いとは思ってもいなかった。
周囲の人間が、自分をどう思うのかは、悪い風にとられると、確かに悲しいが、そのことは大した問題ではなく――。
ただ、「怖い」のだ。
柚木先輩が――。
「……の! おい!!」
香穂子は、その声に思考を中断され、今まさに目が覚めたかのように、ハッとした表情で顔を上げた。
そこに立っていたのは、不思議そうな顔をした土浦だった。
「……つ、土浦……くん……?」
何時の間に、彼が自分の前に立っていたのか――。
香穂子は、ただ呆然と土浦を見つめた。
「……どうかしたのか? 顔色が悪いぞ。」
「そ、そう……?」
慌てて取り繕うように笑う香穂子に、土浦は怪訝そうな顔をしたが、深く追求する気はないらしく、ただ、香穂子を促して歩き始めた。
香穂子も、先ほどまでの迷いなど消えてしまったかのように、土浦の後を何の抵抗もなく追いかける。
けれど、香穂子の行動は、柚木先輩の車が校門前に横付けされたとたん、停止してしまった。
「日野?」
また、土浦が首をかしげて香穂子を見る。
だが、今度こそ、土浦は香穂子の様子が尋常でないことに、気がついた。
血の気のうせた顔は真っ青で、今にも倒れてしまいそうに見えたのだ――。
「おい!?」
土浦の慌てたような声に、香穂子はのろのろと顔を上げ、無理やり笑みをつくろうとして失敗した。
柚木先輩が、運転手があけた車のドアから姿を見せたのだ。
思わず、土浦の腕にしがみつき、その背後に体を隠そうとしてしまい、そのときに、ハッと、気が、ついた。
柚木先輩とは違う、けれど、明らかに、自分とも違う、硬く、たくましい腕。
土浦に同じように押さえつけられたら、自分は、どうなる……?
土浦のほうは、香穂子の行動の意味がわからず、ただ、ひたすら首をかしげていた。
そこへ――。
「おはよう、土浦くん。」
柚木が声をかけてきた。
「……おはようございます。柚木先輩。」
どこがどうとはいえないものの、なんとなく柚木を気に食わない土浦だったが、挨拶ごときで目くじらをたてる必要もなく、返事はしたものの、意識は全部自分の腕にしがみついたまま、呆然とした表情で固まっている香穂子に向いていた。
「ああ、日野さんもいたんだね? おはよう。」
まったく、誰が聞いても友好的な、やさしい先輩のいつもどおりの言葉。
けれど、どんなにその言葉が、態度がやさしそうに見えても、香穂子の目には怖いものにしか写らなくなっていた。
「お、はよう、ございます……。」
かすかに、蚊の鳴くような声で挨拶した香穂子を、柚木はさも心配そうな表情を浮かべながら近寄ってくる。
「どうしたの? 日野さん。顔色が、悪いみたいだけど……。」
言いながら、香穂子の頬に触れようと、手を伸ばしてくる柚木先輩を視界に捕らえ、香穂子はこのまま本当に倒れてしまいそうな気がした。
柚木先輩の白い、きれいな手は、香穂子にとっては恐怖の対象だった。
思わず目をぎゅっと瞑り、土浦にしがみつく手に力がこもった。
無意識の行動だった。
柚木先輩は怖いのに、どうしてか、土浦は怖いどころか、彼にすがり付いているだけで、ほんの少しだけではあったけれど、どこか、安心できるような気がしたのだ。
「……すいません、先輩。こいつ、朝から調子が悪いみたいなんで、今からおれが保健室につれていくところなんですよ。」
そんな香穂子の行動を、どうとったのかはわからなかったが、土浦がいきなりそんなことを言い出した。
「そうなの? 大丈夫、日野さん? ……僕が、連れて行こうか?」
「―――――!!!!!!」
その言葉に、香穂子の全身に緊張が走った。
(お願い! うんって言わないで――!!)
土浦に心の中で懇願する。
その祈りが、土浦に届いたのか、それとも、香穂子の明らかにおかしい様子が、柚木にあるのだと気づいたのか……。
「いいえ、先輩。おれがついてますから、心配には及びません。」
土浦がキッパリと柚木の申し出を断ってくれた。
香穂子はうつむいたまま、そのまま、涙がでそうに嬉しかった。
「そう? じゃあ、土浦くんに任せるよ。……お大事にね、日野さん。」
「……はい……。」
香穂子には、うつむいたまま、そう答えるのが精一杯だった……。
本当に、泣きそうだった。
わけもなく、彼が、側にいてくれることが嬉しかった。
「ごめんね、土浦くん。」
「……別に。」
ブスッとしたままの、普通なら怖いとさえ表情ではあったが、その内面はとても温かく、やさしいのだということを、香穂子は気づいていた。
「……ありがとう。」
そう言って、にっこりと笑った香穂子に、土浦は軽く息を吐いた。
土浦は、あれから無言で香穂子を保健室まで連れて行き、ベッドで横になるように促した。
「いいから、寝てろ。」
「うん。」
昨日、柚木先輩が同じようにそばにいた。
そのとき感じたのは、気まずさと――恐怖。
けれど、土浦から感じるのは、まるで、逆の感情だった。
(土浦くんなら――。)
考えかけて、香穂子は自分の頬が赤くなるのを感じた。
「おい、本当に、大丈夫か?」
その香穂子の様子を見て、土浦が心配そうに、額に手を当ててきた。
「だ、大丈夫!」
「……熱は、ないみたいだな。……一応、ゆっくりしてろよ。」
そう言って、土浦は入ってきた保健の先生に香穂子を託して、出て行った。
その後ろ姿を見送りながら、香穂子は少しだけ、寂しさを感じた――。
おんなじ男の子でも、柚木先輩は怖いと感じたのに、……土浦は安心できる。
いや――、別の意味では、なんとなく、胸がどきどきするようにも感じる。
何故なのか、まだ、香穂子にはわからなかったが、それでも――。
「土浦くんがいてくれて、よかった。」
それだけで、胸の辺りが暖かくなるような気がした。
この気持ちがなんなのか、よくはわからなかったけれど……。
土浦には、ずっと、側にいて欲しいなと、そう、思った――。
【END】
わーお…。
一体何ヶ月ぶりのコルダ…?
やはり、スランプ気味か? 矛盾がいつも以上に大きいような…(汗)
ゲームは最近ごぶさたなのですが、本誌のほうは欠かさず読んでます。
本誌の土浦の設定(?)が大好きです。
香穂子のピンチに颯爽と手を伸ばし、助ける土浦…。
大好きだ―!!!
(05.05.05)
BACK