「……血の、臭いがする。」

静かな森の中、妻と二人で焚き火を囲んでいた男が、つぶやいた。

妻も、その言葉にはっと顔をあげ、周囲の気配を探る。

確かに、先ほどまでは感じなかった、風のざわめきが聞こえる。

そして、その風にのって、濃い、血の臭いがした。





「……くそっ! きりがねえ!!」

青年は、誰にともなく、毒づいた。

いてもたってもいられず、最低限の戦いの準備だけを整え、一人ザールブルグを飛び出したのは、やっぱり、失敗だったようだ。

夜の森は、魔物が活発に活動する場所だ。

ムリに、今夜中にこの森を抜けようとしたのが、いけなかった。

それでも――。

「……あながち、まちがいじゃねえのかもしれないな。」

『魔物を操る盗賊』

青年――ダグラスも、その情報を頭から信じたわけではなかった。

ただ、サイードとアニスがもたらした、『エリーが攫われた』という情報は、信じていた。

ダグラスも、サイードとアニスを知っている。

彼らが、そんな性質のわるい冗談を、しかも王室騎士までまきこんで言う事など、絶対に、ありえないことだったから――。

だがここに来て、魔物の尋常ではない数を確認し、その『魔物を操る盗賊』の情報にも、全くの信憑性がないわけではないことに、気付いていた。

「エリー……。」

つぶやく声は、おそらく自分にしか届かない。

(――断らなければ、よかった。)



ドムハイト王国へ、長期採取にアニスと行くのだと報告に来たエリーは、ダグラスにいつものように、護衛を頼めるかと聞いてきたのだ。

「悪い。さすがに、今の時期はムリだな。」

3月に入り、半月も過ぎたころだった。

すでに、月末から派遣される討伐隊のメンバーが構成され、そのとき、ダグラスは第一中隊の隊長を命じられた。

平素の時や、ただの一隊員であれば、それほど問題なく、許可をとりに向かっただろうが、さすがに討伐隊という大仕事、その上、隊長という立場を放棄できるほど、ダグラスは無責任ではなかった。

エリーもそのことは解っていたようで、さして気にしたようでもなく、「そっか、残念だけど、仕方ないね。」と笑ったのだ。

……それが、ダグラスの見た最後のエリーだった。

それから2ヶ月半がたち、エリーはザールブルグへ帰ってこなかった。



「エリー――!!」

苦鳴にも似たダグラスの後悔の声は、夜の闇に消えていく。

そして、また、魔物に囲まれる。

「……ほんと、失敗だったな……。」

せめて、ルーウェンを捜して捕まえてくれば良かった。

事情を話せば、一も二も無く彼もダグラスとともに、エリーのために働いてくれただろう。

だが、ザールブルグを出るとき、そんなことも思いつかなかった。

「……情けねえ……。」

自嘲するようにつぶやきながら、ダグラスは剣を振るう。

一匹一匹は全く大したことのない魔物――ウォルフたちも、数に物を言わせれば、ダグラスをてこずらせてくれる。

周囲は、ダグラスの倒した魔物の死骸であふれ、それから流れる血の臭いが、更に仲間を呼び寄せる。

悪循環だ。

このままでは、さすがに体力に自信のあるダグラスも、いずれは力尽きてしまうだろう。

そうなるまでに、この場を切り抜けなければならなかった。

その気持ちが焦りを呼び、その焦りが、隙を生んだ。

「――クッ……。」

ウォルフの爪がダグラスの腕をかすめ、血が飛び散った。

幸いそれ程深くはないが、それでも、魔物たちを勢いづかせるには十分だった。

それまで、ダグラスの圧倒的な強さに警戒心を呼び起こされ、遠巻きに様子をうかがっていた奴らが、そろそろと近づいてきたのだ。

(どうすれば、切り抜けられるか……?)

ダグラスは、自らの腕から流れる血が、地上近くに生えている草の葉に、ポタポタとたれる音を聞いた。

唇をかみ締め、周囲に逃げ場が無いかを探る為に、神経を尖らせる。

少しでも早く、一匹でも敵の少ない場所を選び、こいつらの追ってこれない場所へと移動しなければならない。

その時――。

ガサリと、生き物が藪をかき分ける音が聞こえた。

(――かなり大きい。)

ダグラスは、目では目の前の魔物を追い、意識だけをそれに集中させた。

この音を立てたものが自分にとって、吉と出るか、凶と出るか……。

それが、運命の分かれ目になる。

が――。

ザクッ!

キャイン!

――キャイン!!

漸撃の音がし、ウォルフの弱った鳴き声があたりに響き渡った。

「……人……?」

続け様に、二度、三度、剣を振るう音が聞こえ、ウォルフの断末魔がこだまする。

ウォルフたちは、新たに現れた敵に隙をつかれた格好になり、また、その相手の圧倒的なまでの強さに恐れをなしたのか、方々へ散り散りに去って行った。

ダグラスは、一端、ホッと息を吐いた。

だが、すぐに呼吸を整え、この場にやってくるであろう人物に対して注意を向けた。

……結果的に助かったとはいえ、味方かどうかわからないのだ。

じっと、太い木の幹を背に、ダグラスは足音が近づいてくる方を見つめ、その人物が登場するのを待った。

暗闇の中、悠然と足を速めることなく一定の速さで近づいてきたのは、背の高い男だった。

闇の中でもわかるたくましい体躯、隙のない身のこなし。

(……強い。)

ダグラスは直感的にそう思った。

エンデルクと張っても、互角に闘えるのではないかと、思えるほどだった。

男は、ダグラスから2メートルほど離れたところで立ち止まった。

「警戒しなくていい。」

男から発せられたのは、とても落ちついた、低い、思わず聞きほれるような声だった。

山賊や、盗賊の類とは到底思えない。

だが、ただの冒険者と言い切るには、あまりにも不自然な雰囲気をかもし出していた。

男の後ろから、それほど遅れず、松明の明かりが見えた。

闇の中で、まぶしく燃える赤い光によって、男が金髪で、恐ろしく整った顔をした、壮年の男性であることがわかった。

そしてダグラスは、男が何故か自分を見て、驚いた表情をしていることにも気付いた。

(……? なんだ?)

その表情を不思議に思っているところへ、男の後ろから現れた人物が顔を出した。

男とそう年齢のかわらなさそうな、女性だった。

「え……?」

女性もまた、ダグラスを見て驚いたような表情になった。

「……何だ……?」

ダグラスが不審もあらわに問い掛けると、二人ははっとしたような表情を一瞬うかべ、次に苦笑した。

「いや、すまない。こんなところに聖騎士がいるとは、思わなかったものだから……。」

「ええ、ごめんなさい。」

二人が笑うと、場の雰囲気が一転した。

……空気が、やわらかくなったように感じた――。



【To be continued】



(05.06.12)


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