「よう、ダグラス。はかどってるか?」
「……ルドルフ。……邪魔するなら向こうへ行け。」
苦手なデスクワークを任じられて、ダグラスの機嫌は悪かった。
この、ダグラスにとっては単調で、退屈極まりない仕事ばかりを、ザールブルグに帰還してからこの数日、ずっとやらされていたので、機嫌の悪さは最絶頂だった。
……だが、元はと言えば、自分が悪いのである。
ダグラスは仕方なく次の書類に手を伸ばしていた。
「ご挨拶だね。……隊長からの伝言、持ってきたのに。」
ルドルフの言葉に、ダグラスはあからさまに眉をひそめた。
ダグラスの机の横には、まだ未処理の書類が山と積まれていた。
これ以上に、まだ何かあるというのだろうか?
「……………。」
無言で先を促すダグラスに、ルドルフは苦笑した。
「喜べ。家に帰っていいってよ。あとの書類は、俺が適当に分配して、やっとくことになったから。……ダグラス、ここんとこ、ずっとここに泊り込んで仕事してただろ。」
ダグラスは、ルドルフの言葉が一瞬信じられなくて、ポカンとした表情をしたが、次にガタッと机から立ち上がった。
「本当か!?」
その顔があまりにも嬉しそうな顔をしていて、ルドルフは思いっきり噴出した。
「……ック……。あ、ああ……。」
その答えを確認すると、ダグラスは、今まさに見ていた書類をざっと終わらせて、ルドルフに残りの書類について説明をすると、風のように執務室を飛び出していった。
そのダグラスの姿を見送りながら、ルドルフもまた、変わらない日々が戻ってきたことに安堵していた。
脱兎のごとく立ち去ったダグラスの行き先が、自分の家の寝室などではないことくらい、ルドルフにもはっきりわかっていた。
ダグラスが向う先には、彼女がいるのだろう。
「……エリーさん、ホントに無事でよかった。ダグラスも、無事に戻ってきて、よかった。」
そう、微笑みとともにポツリとつぶやいたルドルフは、「さて、と……。」と、ダグラスが残した書類に、改めて向き直ったのだった。
ルドルフの予想通り、ダグラスは一路職人通りにある工房を目指していた。
夕飯には少しばかり早めの時間であったため、手土産代わりにダグラスは途中でいい匂いにひかれて覗いた店のミートパイを購入して、エリーの工房へと訪れた。
ドンドンと扉を叩き、それが開かれるまでのほんの少しの間も、エリーの顔が早く見たくて落ち着かなかった。
「はーい!」
という、いつもと変わらない、エリーの声が扉の向こうに聞こえたとき、ダグラスはそんな今まで当然のことと考えていた、こんな些細なことさえも幸せだったのだと、思い
知った。
「どちら様ですか? ――ダグラス!!」
少しだけ開けられた扉の向こうからひょこっと、いくつになっても変わらない可愛らしさを失わない、自分より4つ年下の少女――いや、すでに年齢的には女性というのが相応しいのだが、どうしてもエリーに関しては、少女と言う言葉がぴったりだ――エリーが顔を出した。
数週間前、エリーが攫われたとの報告を聞いたときから、彼女をあの盗賊のアジトでこの手に抱くまで、……もう二度と、彼女に触れることはできないのではないかと、絶望にも似た感情を胸に感じていた。
――そのエリーが、今、目の前で、以前と変わらず笑っている。
そんな些細なことが、とても嬉しかった。
エリーをもう一度、もっとよく感じたくて、エリーに触れたくて、ダグラスは手を無意識に伸ばしかけた――が。
「どうしたの、ダグラス? ……入らないの?」
ちょっと不安気なエリーの声の口調に、ダグラスはハッとした。
エリーは扉を大きく開けて、ダグラスの通れる隙間を作っていたのに、エリーに見とれたまま動こうとしないダグラスを、少しばかり不思議に思ったようだった。
どれだけ、自分がエリーしか視界に入れていなかったか気づいて、ダグラスは苦笑した。
「わり。ボーっとしてた。」
「ううん。……疲れてるんじゃないの? ずっと、お城で仕事、してたんでしょ?」
「まあ、な。……でも、大したことじゃねえ。」
会話をしながら、いつものように工房に入って、いつも自分が座る席に、ダグラスはドカッと腰をおろした。
それから、手土産に持ってきていた、ミートパイをエリーに手渡すと、エリーは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとー! 今から、夕食作らないとな〜って思ってたとこだったの!! ダグラスも一緒に食べて帰るよね?」
「ああ。オマエがよければな。」
「良いに決まってるじゃない! ちょっと待って! すぐ、用意するから!! あ、昼の残りで芋スープがあるんだけど、……食べる?」
「ああ。何でも、貰うよ。悪いな。」
「ううん!!」
ミートパイがそんなに嬉しいのか、エリーはパイの箱を抱えたまま、満面の笑みを浮かべたまま自分の工房の台所を走り回っている。
その子供っぽいところも、可愛いと、ダグラスは改めて思った。
(……重症……だな。)
そんなことを心の中でつぶやいて、ダグラスは苦笑した。
数分後、ダグラスが持ってきたミートパイと、エリーが温めなおしたスープに、エリーが調合したチーズ、ワインなどが食卓に並び、2人でささやかながら、楽しい食事の時間を過ごした。
食べ終わり、食器類を片付け終わったところで、エリーはダグラスの元に駆けより、にっこりと笑った。
「あ、で、ね、用事は何だったの?」
ダグラスがミートパイを差し出してくれた時点で、一緒に夕食を取ることしか考えられなくなっていた自分を思い出し、恥ずかしくなったのか、エリーはちょっと頬をピンクに染めていた。
そんなエリーもやっぱり可愛いくて、愛しくて、ダグラスはそっと手を伸ばして、エリーの頬に触れてみた。
(……やわらけー……。)
自分とは明らかに違う柔らかい感触のエリーの頬が気持ちよくて、ずっと触れていたい気持ちになった。
でも、もっとよくエリーがここにいる事を実感したくて、ダグラスはエリーの頭を撫で、ポンポンと軽く叩き、そしてその体ごと自分の腕の中に抱きしめた。
――ダグラスの前で、エリーは混乱していた。
ダグラスが自分の頬に手を触れてきたとき、ドキッとした。
……あの、男の手の感触を思い出して、……少し、怖かった。
でも、ダグラスの手は、本当に優しくて、あったかくて……、だから、すぐに怖くなくなった。
ただ、ダグラスが何をしたいのかがさっぱり解らなくて、ダグラスの顔をそっと伺い見たとき――。
……エリーは心臓が、飛び出すかと、思った。
ドクンと、今まで感じたことがないほどに、心臓が高鳴った。
(……ダ……グラス……?)
ダグラスの顔が、今まで見たことがないほどに、とても、優しい顔をしていたのだ。
……ダグラスは、いつも自分に対して優しかった。
手のかかる妹の面倒を見るみたいに、大事な友人を守るみたいに。
時に乱暴に、時に優しく、いつも笑って、エリーの側にいてくれた。
ダグラスと出会って、もう、何年も経つ。
色々なことを一緒にしてきた。
つらいことも、苦しいことも、危険なことも、一緒に乗り越えてきた。
楽しい時も、お互いの夢が実現した時も、一番側にいた。
お互いのことを、本当によく知っていると思っていた。
――なのに、ダグラスの、この顔は……。
(……見たこと、ない。)
優しい、顔――……、今まで、エリーがステキだと思っていたダグラスの笑顔とも、比べ物にならないほどに、ステキだと思える――キレイな顔、だと思った。
何かを本当に、大事に、慈しんでいるのだということが、見るだけでわかる。
かけがえのない、まるで、自分にとって、何にも代えようのない、唯一の宝物でも見つけたときのような、そんな、幸福そうな、顔。
ダグラスにそんな顔をさせているのは、一体……? と、頭が混乱する。
どうして、ダグラスは、こんなにもキレイな笑顔を浮かべて、エリーに触れているのか……?
混乱したまま、高鳴る胸を抱えて、エリーは声を出すことも、動くこともできなかった。
そのエリーを、今度はダグラスはグイッと引き寄せた。
(え?)
と思うまでもなく、エリーが気づいた時には、すでにダグラスの腕の中に閉じ込められていた。
心臓が、痛いくらいに脈を打っている。
(何故? どうして? 何をしてるの?)
エリーの頭の中は、疑問だけがグルグルと回っていた。
息が、上がる。
「……エリー。」
ダグラスの、声が、聞こえる。
息がかかるくらい、近くから、大好きな、ダグラスの、……優しい声、が――。
舌がしびれたように動かなくて、エリーは返事をすることも、ダグラスにこの行動について問い掛けることもできなかった。
――ダグラスの声を聞くだけで、全身の力が抜けた。
このまま、ダグラスの腕の中に溶けてしまってもいいかもしれないと、エリーは本気でそう思った。
【To be continued】