アイゼルは、自分の工房で1人、本を読んでいた。
エリーは無事にザールブルグへと戻ってきた。
また、いつもと何ら代わりのない日々が戻ってきたことに、小さいながら幸せを噛み締めていた。
今日は、しばらく読んでいる間もなかった参考書を徹底的に読みふけり、そしてまた、後日新たな調合に取り掛かろうと考えていたところだった。
そろそろ、ザールブルグ中が寝静まり始める頃の時間――、アイゼルの工房の扉を、乱暴に叩く音がした。
「何なの!?」
アイゼルとて、いつも気丈に振舞ってはいるが、女だ。
真夜中に近い時間に、こんなにも乱暴に扉を叩かれては、驚きもするし、怖くもある。
思わず、壁に立てかけてあった杖を手に持って、怒鳴りつけた。
「誰!?」
その声に反応したのか、扉を叩く音は止まった。
そして、代わりに聞こえてきたのは――。
「……アイゼル〜……。」
弱弱しい、力のない声と共に、すすり泣く音。
……その声の主に、アイゼルは思い切り心当たりがあった。
「エリー!?」
驚きと、ちょっとした怒りとをあわせ、怒鳴るように名前を呼び、扉を開けた。
こんな時間に1人で出歩くなんて、いくら安全なザールブルグの中であっても、無用心すぎる。
――ああ、違う。
ザールブルグについたとき、あんなに安心して、幸せそうに笑っていたエリーに一体何があったのか?
エリーに対しての怒りと心配で混乱しつつも、アイゼルはエリーを自分の工房の中に招き入れて、しっかりとかんぬきをかけた。
エリーは、アイゼルの工房の中に入るとすぐに、アイゼルに抱きついて更に大粒の涙を流して泣き出した。
「ちょっと!? エリー? 一体、何があったのよ!?」
ただ、自分にすがりつくように泣きつづけるエリーに、混乱しつつも、アイゼルはとりあえずエリーを落ち着かせようと、自分の寝室へと連れて行き、寝台に座らせた。
その間も、エリーはアイゼルにすがりついたまま、離れようとはせず、泣き止む事もなかった。
「もう! ほら!! 泣いてばかりじゃ、何もわからないでしょ!?」
ハンカチを取り出して、怒ったような口調でエリーの涙を拭いてやりながらも、アイゼルはエリーのことを本気で心配していた。
事実、エリーがこんな風に泣くなんて、今まで長い間付き合ってきたけど、一度たりともなかったのだ。
――一体、エリーに何があったのか……?
とりあえず、寝台に座らせて、アイゼルはエリーから一度離れて、落ち着けるために紅茶を淹れてあげた。
アイゼルが紅茶を淹れている間に、少しは落ち着いたのか、エリーはまだ涙に濡れてはいたが、しっかりとその瞳でアイゼルを見て「ありがとう」と言った。
アイゼルは、自分も紅茶のカップを持ったまま、エリーの隣に座った。
「……で? 何があったか、ちゃんと話してみなさいよ。」
アイゼルの少しきつめの口調の中にも、エリーに対する優しい気持ちが感じられて、エリーはそれに嬉しく思いながら、コクンと頷いた。
………………………。
「……あきれた。」
「……アイゼル?」
話を聞き終わったアイゼルからまず発せられたのは、その一言だった。
そして、頭痛でもするのか、アイゼルは額を押さえてうめいた。
「……貴方って、ホント……。」
本気であきれたようにため息をつきながら、アイゼルはエリーの顔に向き直った。
「――で? 追いかけなかったの、ね?」
「……うん。」
「どうして?」
「だって……、……怖かった……の……。」
ダグラスが、最後だと言って抱きしめてきたとき、エリーがビクッと震えてしまった。
その時、ダグラスは自分でも気づいていなかったのかも知れないが、とても、傷ついた顔をした。
――アレは、ダグラスに怯えたんじゃない。
そう、告げたくて、……でも、説明ができなくて……。
エリーは何も言う事ができなかったのだ……。
「『怖い』? ……門番が?」
アイゼルは眉をひそめて、エリーに問い返してきた。
エリーは唇を噛み締めて、無言で首を振った。
「……じゃあ、何、が?」
これは、自分が思うような単純な理由ではなかったのかもしれないと、アイゼルは瞬時に頭を切り替えた。
「……ダグラス、なのに。……ダグラスの手なのに。……怖かった。――痛みから……思い出して――、自分の力じゃ何もできないって、……思い知らされたときの……。」
あのときの恐怖が、いきなり甦った。
一度目に抱きしめられたときは、確かにいきなりではあったけど、ダグラスは壊れ物でも扱うかのように、本当に優しくエリーに触れてくれた。
でも、二度目は、違った。
きっと、ダグラスは、エリーに振られたと思ったことから、余裕などなくなってしまっていたのだろう。
今もまだ少しピリピリする傷の痕が残る背中に触れて、力いっぱいエリーの体を抱きしめてきた――。
背中の傷がピリッと痛んだ瞬間、目の前にいる相手がダグラスではなく、あの男に見えて、エリーは怯えてしまった、のだ――。
「エリー……。」
嬉しかったのに。
ダグラスに触れてもらって、抱きしめてもらって。
言葉にして気持ちを伝えてもらって。
本当に、嬉しかったのに――。
また、せっかく止まった涙を流し始めたエリーを、アイゼルは優しく抱きしめた。
そして、エリーが泣き疲れて眠るまで、ずっと、抱きしめてくれていた――。
【To be continued】